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梅田芸術劇場「エリザベート」 [観劇感想(その他)]

東宝「エリザベート」
2016年9月24日(土) 梅田芸術劇場 12時30分 1階23列センター 


久しぶりの東宝エリザベート。
もともと宝塚ともウィーンとも違う、独自路線。
宝塚よりも大人向けで、暗い。ウィーンほど冷酷ではない。
・・そんなイメージでした。今回、超がつくほど久しぶりに見て
その認識は間違っていなかったことを実感。

しかしながら。そんなイメージがあった以前みた東宝エリザベートから、
装置も演出も場面も台詞も編曲もものすっごく変わっていました。
ちょっと冷酷さが増した?ウィーン版に近くなった印象(演出とかは全然違うけど)

宝塚版エリザベートを全曲歌える!という私には、違和感の連続。
まあこれは大変個人的な事情(笑)
同行の方々(宝塚は嫌いだけどミュージカルは見る)には好評でした。
私ひとり違和感にもぞもぞしていた。

前から思っていたけれど、「エリザベート」は宝塚版のほうが圧倒的に好き。
東宝版は暗すぎて、夢と愛がない・・・でもウィーンの原点はもっと暗く冷酷だし
愛に満ちた少女漫画のような宝塚版が異質なのでしょう。

201609エリザ.jpg


ミュージカル「エリザベート」
脚本・歌詞 ミヒャエル・:クンツェ
音楽・編曲 シルヴェスター・リーヴァイ
演出・訳詞 小池修一郎


途中の演出がかなり変わっている!!
・・・記憶は宝塚版との比較になりますが。
場面構成がかなり違っていて。
ゾフィーがルドルフ(子供)に教育する掛け合い歌の場面はなかったし、
マダム・ヴォルフの場面に皇帝陛下が居ない。シシィが裏切られた!と
いう理由は、ウィーンも東宝も、「病気を移された」なので違ってない。
ゾフィーの死の場面では、君主制の危機に悲壮感を抱いていたのがゾフィーだけと
いうソロがあり、ルドルフがドナウ連邦を構築しようとした背景にナチスの台頭が
あるという場面もあった。・・・この演出では、皇帝陛下が無能ではないか。
ウィーンでは「ハプスブルク最後の皇帝」といえばフランツ・ヨーゼフ皇帝なのに
彼に愛のない演出になっている。(宝塚版では上記がどちらもなく、シシィが
皇帝が裏切ったという理由が「浮気」なので、皇帝陛下の威厳は保たれている)
そうそうハンガリーで第1子のゾフィーが亡くなるという場面があった。
姑から強引に取り戻した子供を、遠征先で死なせたという敗北感から、
第3子のルドルフの養育をゾフィー皇太后に全面的に仕切られてしまった、という
エピソードへつながる。しかし、東宝では、厳しすぎる教育を見かねて
皇帝への最後通牒でルドルフの養育権を取り戻したあとも、
自分で育てず放置した、というフレーズが語られ・・
「エリザベートは、エゴイスト!!!」とルキーニが高らかに叫ぶのだ。何度も。
たしかに、東宝版で描かれる皇帝は無能で、皇后はエゴイストだ。
もしかして、この作品はハプスブルクへの社会風刺だったのか? と思える。
よくまあ小池先生はこの物語を、換骨奪胎して、愛の物語に作り替えたもんだ。
エリザベートを愛するフランツ、エリザベートからフランツへの愛、
ルドルフへの愛、トートのエリザベートへの愛。ゾフィーもマックス公爵も
みんな子供を愛していたし。究極の愛の物語になっている。テーマが全く違う。
同じ配役、同じ楽曲でここまでテーマを変えるなんてすごい才能だと思う。
そして、ここまで別物になった作品を許可したウィーンサイドも凄いよね。

と、このように見ていて、東宝版のラストシーンがどうなるのか、とても気になった。
宝塚版は、トートとエリザベートの愛が成就する結末。幸せそうな二人は抱き合って
最高の笑顔で、天界?へと消えていく。
ウィーン版では、エリザベートが死を受け入れた途端、目的を達したトートは
彼女の屍を放り投げて勝利宣言。すでにエリザベートに関心はなくなったトート。
衝撃の結末だった。トート閣下にとっては、エリザベートに死を受け入れさせる、
というちょっと難しいゲームだったんだな。だから Game Overしたら関心なし。
そして東宝版。トートは、死を受け入れたエリザベートを恭しく安置して、終了。
ラストシーンまでは宝塚版と同じに見えるが、途中経過を見ているとウィーン版に
近いのではないかと思う。
このラストシーン、私は「困難なゲームに勝利し、戦利品を飾った」に見えた。



楽曲も、実は少しずつ違う。もちろん宝塚版は女性だけなので、全体に音が高い。
東宝は、娘役(?)でもかなり低い声で歌っているので驚く。その他のこと。
ウィーン版もCDを聴いているので、違いは分かる。初演のウィーン版と初演の
宝塚版、楽曲はほとんど同じだった。だが、この東宝版はかなり違う。
音がね、微妙に変わってる。それが小さな違和感をもたらす。歌詞も微妙に違う。
この違和感のむずがゆさ! 濃い宝塚ファンにしかわからないと思う。
音が違うといっても、楽譜がちがうのであって音を外しているような人は
いないので、そこは安心。皆さん綺麗な声できちんと歌っていました。
当然かもしれないけど、それが当然ではない世界が隣に堂々と存在するので(笑)

衣装は、全体的に地味。いえ普通のミュージカルからすると、かなり豪華なのだけど、
宝塚版を見ていると、ほかのどの演劇を見ても地味に見えるという弊害が起こる(笑)
(→初演のころ・・20年前。世界各国の「エリザベート」がウィーンに集結する
というイベントがあったのだが、居並ぶエリザベートの中、一番豪華なドレスを着て
いたのが、花總まりさんだったなあ。当時映像を見て思った)
その花總さんのドレス。宝塚版のほうがやはり豪華。あれ、初演のドレス貸し出し
してくれないかしら? お見合いの青いドレスと鏡の間のドレス。絶対に初演で
花總さんが着ていたものの方が豪華だし似合う。自前という噂もあったくらいだし。
他の方の衣装も、豪華なんだけど、いまひとつ・・と思えてしまう。宝塚が無駄に
豪華なんだろうな~宝塚は人数といい衣装といい、「無駄に豪華」と言われる部分が
なければ宝塚の魅力を構成しないと思うから。『1789』はそれが良いほうに作用
したけれど、『エリザベート』は、「衣装、貸して!」と思ったのでした。

東宝版では、トートダンサーズがいる。宝塚版は黒天使である。
やってることは似ているが、名称が違う。東宝版はそれは激しく踊る。
彼らのダンスには、正直宝塚は敵わないと思う。OSKレベル?それ以上?
うっかりダンスに目を奪われているとストーリーに置いて行かれるという危険が
生じるほど、素晴らしい。あの跳躍力が醸し出す迫力は絶品だ。
そして半裸、これは東宝初演からずっと。男性の半裸の肉体なので、見慣れない。
歌劇ファンなので、「男は肌を見せない、女は肌を見せる」が常識だから(笑)
すごく戸惑う。素晴らしいダンスだが、あまり半裸の男性を見つめるのも・・と、
乙女だから(笑)ちょっと悩ましい。

ま、こんな感じです。かなり書いたけど、個別に。


エリザベート皇后(花總まり)
初演1996年でしたね、20周年って言ってましたもの。初演のシシィの初々しさ、
その神々しいまでの美しさ。まったく失っていない!さすが永遠の娘役、若い。
20年前と変わってない。少女時代も違和感なかった(私には)。
1幕ラストの「あたりを薙ぎ払う神々しさ」は変わらず、いや一層パワーアップ。
あの可愛らしい娘役さんが、女帝と言われる存在になり、20年か。
さすがタカラジェンヌ、年齢不詳の妖精さんですね。
元娘役が退団後、東宝でタイトルロールを張り、一番最後に出てくるという偉業を
達成したのは、この人あってこそ。偉大な娘役であった。(犠牲になった人も多いが)
いっそ、宝塚1000回上演記念は、花總さんにエリザベートをしてもらえば?と思うほど。
たぶん、現役ジェンヌのトートに寄り添っても違和感ないのでは?

さてさて。
宝塚版よりも冷酷でエゴイストのエリザベート、ウィーンのエリザベートは
大変自我が強くてわがままで、怖かった。でも花總エリザは、初演からずっと
「必死で生きている」感が出ているところが違う。この健気さ、追い詰められた
感じが、「エゴイスト」に対する嫌悪感を薄めていたと思う。
「自分を守るため、あなたを見捨ててしまった」の台詞、納得できるから。
それまでに傷ついて傷ついて、殻にこもって自分を守るのに精いっぱいで、
自分と同じタイプだった息子を助けてやれなかった・・と納得できる。
これがなかったら「メンドクサイからって、話を聞いてやれなくてゴメンね」
くらいになってしまいそう。それほどエゴイスト。
花總さんの健気さと高貴なものの孤独感が、この役にぴったりなので、
エゴイスト感が薄れて、私は良かったです。やっぱりエリザ=花總です。
ひよこのスリ込みかもしれないけど。


闇の帝王トート(城田優)
背が高くて男前のトート閣下。以前見たときより格段に歌が上手くなってる。
カッコいいですよね~。このトートも、エリザベートへの愛があるのかないのか、
よくわからなかった。執着はしてた。それは間違いない。冷酷なのか愛が深いのか、
トートも謎でしたね。


フランツ・ヨーゼフ皇帝(田代万里生)
真面目で優柔不断、東宝版ではやることなすこと裏目に出てしまうという情けなさ。
その無力感というか、閉塞感が見事に表現されていました。
そんな状況でも、手抜きはしないんですよね、この陛下。妻から拒絶されても、
反省して大人しくしている。皇帝なんだから、母もいないんだから、好きにしたら
いいのに?と思うけど、そうじゃないんだ。
母に逆らうべき時(妻を守るべき)に母に従い、母に従うべき時に(皇后決定時、
君主制への見解)母に逆らった、判断を誤った人。息子には高圧的に出て話を
きかず、状況は変わったのに母亡き後に母に従うという愚か者。
母だって生きてたら、ルドルフのいうことを聞いてたと思うんだけどねえ・・
こう書くと、皇帝がかなり無能になってしまい、私の持つイメージが壊れる。
ひとつわかるのは、彼は心底「自由なエリザベート」を愛したということだけ。
愛し方も間違ってるし、対し方も間違ってるけど。憧れの存在だったんだね。
でも母と同じように柔軟に生きようとした息子のことは許せなかったんですね。

ウィーン版では、主役がエリザベート、トップがトート、ルキーニが2番手だった。
フランツ皇帝は3番手。東宝もそうでしたね。やっぱり小池先生、フランツをかなり
改変しましたね。この改変、ウィーンの人はどう思うんでしょうね。
一度ウィーンで宝塚版を上演してみてほしい。


皇太后ゾフィー(涼風真世)
強く、厳しく、冷静に、冷酷に、がモットーの人。だけど実はハプスブルクを一番
大事に考え、一番きちんと対応しようとしていた人だったのではないかと。
彼女の死の間際のソロは、涙誘うわ。悲劇が自分の息子や孫を襲うのを分かってながら
寿命が尽きる自分には何もできない・・という絶望。
さすが涼風さん。涼風さんはちょっと優しい感じがどうかと思ってたけど、
老女がものすごく上手かった。


皇太子ルドルフ(古川雄大)
美しく繊細な皇太子、花總さんと親子に見える。
東宝ルドルフは、ナチスのシーンがあり、彼が鍵十字に追い詰められる場面がある。
ハンガリーの革命家となぜ手を結び、皇帝をどう説得しに行ったのかが見える。
だが、それでも頑迷な皇帝は動かなかった。その絶望感。彼の死の場面へ直結する
場面ですが、流れがとても自然でした。
もともとルドルフは出番が遅く、出たら出ずっぱりですが、怒涛の如く運命に
押し流されるルドルフの様子が克明に描かれていたと思う。ここは宝塚版よりも
ルドルフにとっては良い感じ(重度のマザコンに見えないのはいいね)
ウィーン版では、彼の死の場面に、スカートを履いたトートが出てきて、
彼を殺したけれど、東宝はトートのままだったな。これはマリー・ヴェッツェラを
象徴してて、すべてトートの仕業っていうのを象徴してたから、実は東宝版でも
期待していたところ。ちょっと残念・・。
古川さんは華奢で美しいので、全身ばねの塊のようなトートダンサーズと
体格の良いトート閣下に翻弄される様子が、たまらなく魅力的でした。


子供ルドルフ(加藤憲史郎)
本当の子供(当たり前)。可愛いのに、なんてきっちり歌って芝居できるのか。
ゾフィーとの場面、自分の運命を予兆する歌を歌ったような。
こんな小さな子でも、きちんと音程通りに感情を乗せて歌えるんですね。
お芝居もよかったです。


ルキーニ(山崎育三郎)
最初誰かわからなかった。髭がもじゃで。配役見たら育三郎さん。ほお~すごい役作り。
すっごくクセが強かった。歌い方も台詞の言い方も、かなりタメを入れてるのか、
崩してるのか、とってもとってもクセがあった。シニカルで、アナーキーで、虚無で。
どうでもいいのに、裁判官に付き合って長い話(「エリザベートの生涯を語る」)をして
いるのは、退屈だから。そんな感じがアリアリと浮かんでいた。彼には愛も情もない。
こういうルキーニもありだと思う。
ただ私のルキーニは、轟悠さまただ一人ですが。


ルドヴィカ(未来優希)
いままで見た中で最高に上手いウドヴィカだわ!と思ったけど、誰かわからなかった。
お顔が未来さんに似ている気がしたけど、未来さんはマダム・ヴォルフだし・・と
思ってたら、やっぱり未来さんだった。上手いわ。2役、まるで別人、別の歌い方。
この方は、宝塚でも指折りの歌の上手さと演技の上手さを誇っていたけれど、
さすがです。歌い方も芝居も全く別人でした。
娘の玉の輿に浮かれる母親、素晴らしかった。ヘレネでもシシィでもどっちでも
自分の娘だから構わないわ!という浅はかさ。普通の貴族の奥様ですね。
ヘレネならいいけど、シシィは・・と悩む父親と対照的。なんで結婚したのか
わからんけど、奥様が鈍感で上手くいってる夫婦という感じでした。


マックス公爵(大谷美智浩)
シシィとよく似た性格の父親。彼はシシィが皇后にふさわしくないことを知ってて
だから反対していた。皇后の母になれると浮かれる妻と、ハンサムな皇帝に恋する娘に
押し切られたけど。彼は良く見えてるんだよね・・彼だって、「自分を守るため、
娘を見捨ててしまった」んですよね。これは家系かもしれない。
妻は適当いにあしらい、娘の家庭教師と浮気し、それでも「パパ大好き」と慕ってくる
娘、可愛かったと思うけど、妻や娘や、すべてを敵に回してでも、娘の本当の幸せを
願ってあげる手間はかけなかった父。
そういう「モノが見える」のに、楽観的で刹那的、享楽に流れる父親像でした。


ヘレネ(原宏美)
今回は初めて「酷いドレスに変なヘア」というのに、同感しました!
だって普通にみるヘレネは、いつも可愛いんだもの。美貌のエリザベートとは
姉妹だし、ヘレネも実は美人なのでは?と思うのですが。
とてもシシィの姉とは思えないほどの、・・に見えました。すごい。


リヒテンシュタイン(秋園美緒)
すぐにわかった!>そんちゃん。相変わらずの綺麗な声に、ぴったりの役どころ。
秋園さんは、きびきびした、しっかりした大人の女性が似合うタイプ。
声も明瞭で歌台詞でも聞きとりやすい。だからリヒテンュタイン夫人の役は
本当に嵌り役だと思う。ゾフィーに従い、シシィを憂い導こうとする気持ちが
とてもよく見えました。シシィは嫌ってたけどね・・。


エルマー(角川裕明)シュテファン(広瀬友祐)
ハンガリーの革命家トリオ(あら二人だわ。)
宝塚版と違い、なんか粗野で品がない感じ。ウィーン貴族にくらべると、だけど。
「ハンガリー一の大貴族」がこんなだから、オーストリーに併合され、馬鹿に
されていたの?と思える。もとものウィーン版にはハンガリー場面はなかったん
ですよね。日本上演時にナチス場面を削って、代わりに入れたのがハンガリー場面。
なのに今じゃウィーン版にもハンガリー場面があるとか?
東宝版は、全部(ハンガリー場面もナチス場面も)入れたから、上演時間が
とっても長いわ~。ウィーン初演は冒頭の「愛と死のロンド」も「私が踊るとき」
もなかったのよ。今回の東宝版、確実に30分は長くなってると思う。


あとはその他の方々なんですが、印象が強かった方を。

シュバルツェンベルグ公爵(朝隈)
ものすごく声が良かった。一番好みの声だったかも。低音でよく響く男性の声。
男性の声はあまり得意ではないのですが(だから歌劇ファン)この方の声は好き。
とっても印象的で、もっともっと聞きたい声でした。


ヴィンディッシュ嬢(真瀬はるか)
精神病院で、「私はエリザベート」という狂女。歌も芝居も上手いわ~と思った。
あとでみたら真瀬はるかさんね。そりゃ上手いわ。


マダム・ヴォルフ(未来優希)
未来優希さんは、こちらの方が本来の魅力炸裂。迫力のある声、パンチのある体格。
素晴らしい女郎屋のやり手の女将。(ちなみに今、宝塚宙でやってるマダム怜美は、
一番売れっ子の高級娼婦がマダムになったという感じで、180度役作りが違う。
このタイプは初めて見たくらい珍しいが、とてもよくできていた)。
基本マダム・ヴォルフは、美穂圭子さんから始まる、今回の未来さんの演じた
タイプが正統派。正統派を目指して役者不足に陥るケースが多々あるが。
今回は本当の正統派のマダムの力を見せていただいた。
ちなみに、未来さんのゾフィー皇太后も素晴らしいので、いつか東宝でも見てみたい。




いろいろ言う割に、結構な長文になってしまいました。
やっぱりエリザベートは思い入れが深いので、書くことが多いです。
台詞を全部覚えている(笑)宝塚版、ウィーンまで見に行き来日公演も見ているウィーン版、
一番見てないのがこの東宝版ですね。同じ作品でもここまで解釈が違うバージョンがでる
というのは、やはり「小池修一郎」だからでしょうか?ウィーンサイドの器が大きいから
でしょうか。アメリカ風に版権雁字搦めより、いろいろな解釈が出る方が面白くて
私は好きです。いろいろ見に行きたくなるもの。



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コメント 4

はるか

もう古い?記事になってしまいましたが......。
初めまして、コメント失礼します。

元々原作はシシィの生涯を通してハプスブルグ家の滅亡を描いたミュージカルだそうです。
小池先生が実際に宝塚で上演するために、この話を黄泉の帝王とハプスブルグ家最後の皇后とのロマンスにしたそうです。
何より日本は付喪神の文化で、形あるものを擬人化することはあれど概念を擬人化することに違和感があったこと、何より一路さんの退団公演としてセッティングしたこともあって「死」ではなく「黄泉の帝王トート」として変化したそうです。
今回井上さんと城田さんがトートを演じられたので、どちらかというと概念寄りだったなぁという感想。
(石丸さんトートも観たことがあるのですが、あちらは帝王でした。山口さんもそうなのかも?)

コメント失礼しました。
お忙しいとは思いますが、更新楽しみにしています。
by はるか (2017-07-04 12:03) 

えりあ

はるかさん

コメントありがとうございます。「死」と「黄泉の帝王」の違いですね・・あまり考えてなかった観点です。ウィーンのは「死」、宝塚のは「黄泉の帝王」、東宝は、役者さんによってどちらよりか・・?という感じなのでしょうか。
ウィーンのオリジナルと宝塚版は、もう全然別物ですものね。
おっしゃる通り「死」なら概念だから、恋愛色は薄くなり、「帝王」なら「王妃」との愛を描くことができる・・根本から違う物語。石丸さんは見たことなくて、山口さんは大昔みたかな・・で細かく覚えてなくて残念。
次に見る機会があれば、その視点からも見てみたいと思います。
ありがとうございました!


by えりあ (2017-07-04 22:42) 

ななしのごんべえ

はじめまして。
ななしのごんべえ(ペンネーム)と申します。
宝塚版に関してコメントさせて頂きます。
宝塚版のラストシーンは「真実」ではなく、ハッピーエンドを期待する宝塚の大半の観客に対して媚を売って利益を得ようとする商業主義の産物である、と考えます。
非常に辛口なコメントになりますが、宝塚版は、残念ながら作家に「真実」を描くと言う崇高な精神が感じられません。
昔から、宝塚に対する外部からの批判の一つは、作品に「真実」が存在しないと言うことらしいですが、エリザベートのラストシーンもその一例である、と考えます。
宝塚版は何回も劇場で見ていますが、ラストシーンを除けばえりあさんと同じく自分も非常に好きですよ!
以上で失礼します。
by ななしのごんべえ (2018-10-26 12:40) 

えりあ

ななしのごんべいさま

コメントありがとうございます。宝塚では作家に「真実を描く崇高な精神がない」というのは、まあ当然かな~という気がします。それを求められていない世界だと思いますので。それがしたい作家は外の世界へでるでしょう。宝塚は夢の世界なので、現実の厳しさやら人間の醜さなんて見たくない。商業主義というより、小林一三氏が創業したときから「女性と子供のための夢の世界」なので一般の演劇とはカテゴリーが違うのだと理解してます。だから「エリザベート」はウィーン版とも東宝とも全く違う少女漫画のような恋愛ものに変形されて、だからラストシーンもあのように。そうしなければつじつまが合わないと思います。
私も崇高な真実より、いやな現実を忘れられる幸せな世界(たとえ悲劇でも)に浸りたい。宝塚の存在意義はそこにあるから。音程外して歌う役者やセリフが通らない役者、某演技の役者が堂々と主要キャストを務める舞台ですから、厳しいことは不要な世界なんですよね(笑)「あ~楽しかった♪」と帰れる舞台だから何が何でもハッピーエンド!ですね。私は日本に宝塚があってよかったって思います。

by えりあ (2018-10-26 20:38) 

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